絶望を見た14才は、25歳の私から見れば転機だ。
あの頃から長いこと生きることを諦めていたし、大人になんかなれない、なりたくないと思って生きてきた。
今振り返れば、心は大人にならざるを得なかった。
つらかったこと、苦しい思いをしたこと、話したいのに話すことをクッと我慢して、小さな心は耐え続けた。今話したら相手が嫌な思いをするとか、私が話したかったただ一人の相手は疲れているんだ、とか。
つらい体験をして、それでも怒りの矛先は他人に向けず、笑顔で居続けた。
今の私が14才の私に出会ったら「よく頑張ったね」と言って迷わず抱き締めるだろう。
今はそう思える。それは今だから、だ。
当時は頑張っている感覚もなく、耐えている感覚もなく、つらさに慣れていくだけだった。
つらさに慣れていくことは人の感覚を狂わせる。
このブログにも何度か書いたが、20歳くらいまでずっとつらさの中に居た。幸せになることへの方が臆病だった。つらさの中にいると、つらい方が楽になってくるから不思議だ。ずっと悩んでいる自分になってしまうのだ。
それでも私は信念というか、軸というか、たぶん、自分の心の信じ方を知っていたのだ。
「20歳になったら元気になる」
そう信じてからは、色んなことが前向きに動き出した気がした。
私にとっては、人生を諦めることは逃げでしかない。
こんなことを言うと誤解を生みそうだが、これは私の人生を振り返って思うことであり他者に向けての言葉ではない。
そしてそんなことを思うと同時に、私は本当に自分に厳しいな、と思わされる。
もっと子供でいてよかったんだと思う。甘えてよかったんだと思う。話したいことを話してよかったんだと思う。
当たり前だが、それができなかった14才にはもう戻れない。
14才の頃の私を抱きしめてあげることも、もちろんできない。
今の私は、当時のことを振り返って「あの時つらかったんだなぁ」とほんの少しだが客観的になれている。心の底から成長したと感じている。少し前までは、思い出しては泣きじゃっていたのに。
客観的になれると、冷静になれる。「私はこんな気持ちでいたんだよね」と気持ちの整理もできるし、「私はこうして欲しかったんだ」とあらゆる願いや望みも知れた。
遠い記憶になったんだと思う。だって、私は今を生きている。
私はあの頃から今も、自分の心が一番自分を救ってくれる。
いろんな思いをしたと同時に、いろんな考えも積み重ねてきた。考えて答えを出して実行して。その繰り返しだった。大学生くらいの時は周囲に考えを理解されないことも多かった。自分だけ、はみ出していた気持ちになったこともある。
あの時味わったつらさは、確実に私を変えた。
つらいことを体験して、そのつらさに悩んだ時期があって、そこから抜け出そうと信じ、今、私は人生がこんなに楽しいということを目の当たりにしている。生きる素晴らしさを、噛み締めている。
つらさがなくては、幸せを感じられなかっただろう。
人生を諦めたかった14才があったからこそ、25歳の私は生きていこうと思っているのだ。
私は私に生まれてよかったと思うし、私という人間を信じ続けてよかったと思っている。
人生は好転する。
心が成長し続け、私という人間が生きていく限り。
CHIHIRO
はてなブログ10周年特別お題「10年で変わったこと・変わらなかったこと」