家族の中心でいることは、時として私を苦しめる。
そんなことを言うと私の大きな勘違いだとか、家族には言われてしまいそうだ。私は家族の中心でいることが嫌なわけではない。頼られるのもいいことだと私自身も考えを見つめ直す必要もあるのかもしれない。
本日は、そんな家族の話。長い長い家族の話。
両親の問題は、両親の問題でしかない
慕っていた兄が就職で家を出てから、両親の間に私が入ることが多くなった。
私が大学生の頃、母が具合を悪くして一緒に夜間救急へ行ったことがある。そこでの治療がうまくいかず一緒に救急車に乗り母は緊急治療室に入りそのまま入院となった。私は終電を逃し病院から帰れず、不安に耐えながら一人ロビーで寝させてもらった。父には連絡をしていたが、病院に来てくれるわけではなかった。朝方、始発で家へ帰ると父がいて、「病院に母の荷物を持って行かなきゃいけないんだけど…」と私が言うと「仕事だから」と返された。私も大事な講義があるんだけど…と思いながらその日は欠席の連絡を入れ、1時間後には眠い目を擦りながら病院へ向かっていた。
あの時、私が動かなかったら誰がどんなことをして母を支えただろうと、ゾッとする時がある。私だって病院に母の荷物を持っていけないと突っぱねたら、父はどんな反応をしただろうとか。考えてもキリがないことを延々と考えてしまう。
私の思いは最初からひとつで、両親の問題は両親が解決してほしいということ。
最初の話はエピソードなだけで「母が大変な時は娘も出るのが普通でしょ!」ということを言いたいわけではない。
父が病院へ行かなかったことも、母が私に頼ったことも、私は両親の問題だと思っているのだ。
家族の中心に立つべきは
両親が互いに話したくない時、私はしょっちゅうその「中心」にいることを求められた。「お父さんにこう伝えておいて」と母に言われることが頻繁にあった。父は目の前にいるというのに。私が「自分で伝えたら」と言うと母はあからさまに不機嫌になるので、私はその場すら避けるようになる。社会に出て今の仕事に馴染んでからは自分をコントロールすることも必要だったから、自分の部屋に篭ることも増えた。
そしてそんな関係性に嫌気がさし、ついに一人暮らしを始めたわけだ。
私としては、娘である私が両親のあれこれを担うことが本当に重荷だった。「これ、私がやらなくてもいいことかもな」と思うことが多々あった。でも、そうしないと回らなかった。私が中心でいることで平穏に保てることは幾度もあった。でも、本当に、そうしないと回らなかったのか?
私が家族の中心でいなくてはいけなかったのか。
兄は、兄でしかなく
色々なことが重なり引っ越すことになった時、一時的に実家に帰るタイミングがあった。そのタイミングで、兄に両親のことを相談した。兄と私は正反対のタイプで、だからこそ救われた部分が沢山あった。でも、同じ家庭環境に生まれ育った兄と両親のことで色々話したことはなく、この相談が最初で最後感があった。
「いくら周りにそう言われても、私は家族を良い家族って思えない」と話した私に、兄は想定以上の返事をした。
「良い家族の基準なんてそもそもない。もし理想の家族像があるんだったら自分が叶えていけばいい。」と。私はこの返事を聞いて、兄は兄でしかないという安心感と、私が考えすぎることはないんだなと力が抜けたのを覚えている。
できないと試しに言ってみた
そんな慕っている兄が結婚することとなり、挨拶がてらみんなで食事に行ったのが先日の出来事。
そこでまた両親が担うべき役割を私に任され、私は嫌な思いをした。これは色んな背景を考えたとき私だけが嫌な思いをして終わることではなかったと思っている。私の気持ちの確認をせずに「それはちひろでいいよ」なんて言われて思わず「なんで私なの」と返してしまった。その後話がどうなったかはわからないが、ずっとモヤモヤは続いた。
後日私はそのことを母に伝えた。
「あの役割は私がやることではないよ」と怒りやモヤモヤを出さないよう、伝えた。
「何を今更?」と言われたが、その場の雰囲気を壊すよりも良い判断だと思っている。
できないことはできない。荷が重いならそれはやるべきではないし、背負う必要もない。
私たちは嫌なことを嫌と言っていいんだと思う。私もその練習中だ。やっぱり感情も着いてきてしまうし、うまく伝えられかった日にはとても落ち込む。
私が家族の中心で居続けることで、回ることもある。だが、それによって回らなくなっていたことだってもちろんあったのだ。それはきっと両親の問題がいつまでも解決しないことへの暗示だ。
私はもう立派な大人だ。自分の道を生きていい。自分が生きたいように、責任を持って、生きるべきなのだ。
家族という形に答えはないから
長い記事を描いてしまった。そして描いてるうちに泣けてきてしまった。
家族という形に、答えはない。
というより、形なんてものも恐らくないのだろう。
ただ私たちは「こうであって欲しかった」とか「こうなりたかったのに」とか家族に対しての理想や、自分の中での普通を当てはめているだけだ。
私がそうしたいのなら、そうするのは私だ。
だから、兄が言うように私が理想を叶えていけばいいのだろう。
世の中には自分より大変な思いをしている人が沢山いると思うけど、大変さは量れない。あなたが大変と思うなら、それはあなたが頑張ってきたのだし、充分に大変なことなのだ。
分かち合うことが難しい場合はある。他人の大変さを体験することはできないから。
でも、勇気を出して話してみたいと思った。今の私には、頼れる人が沢山いる。
私が、あなたが、
もう生きたいように生きていいということなのだ。
あなたがあなたの人生の中心にいれば充分なのだ。
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